瞑想あれこれ

瞑想というと脚を組んで座って、という印象が強いが私はほとんどそれをしたことがない。脚がつらいのだ。関節が痛い。で、椅子に座っての瞑想を中心にやっていた。

 

OSHOのところではダイナミック瞑想といって強い呼吸を鼻からした後にカタルシス(浄化)のステージがあるものをやっているが、私は探求時代、副鼻腔炎を患い鼻の通りが悪くそれがほとんどできなかった。

 

チベタングループというのがあって、なんでもチベットに伝わるヒーリング法だか瞑想法だかで、私もコミューンでそれを経験したが、中にカップルになって相手の胸の上で激しく上下するという手法があったがこれには参った。私がカップルになった相手は大柄なドイツ人らしい女性で、仰向けになる私の胸の上に座り激しく上下に動くのだが、苦しいのだ。「ハラ」という日本語の「腹」であるグループであったが、あれには参った。

 

コミューンではOSHOの講話をビデオで観るのだが、ブッダホールという広い大理石の敷き詰められたホールでそれをやる。ほとんどの人が簡易椅子を持ち込んで脚を組んで座っているのだが、私は座るのが苦手なので、寝て聴いていた。ほとんど眠りかけのこともあったが、瞑想になっていたのだろう、終わるとぱっと目が覚めた。ちなみにOSHOの英語はほとんど理解できたがジョークだけがどうにもわかりづらかった。周囲の西洋人が笑っているのに私は覚めたままであった。

 

OSHOの本に紹介されていた瞑想法で、夜中に鏡を見つめるというのがあった。ろうそくを灯してである。それはなにか邪悪な感じがして、やらなかった。魔法チックでもある。まあOSHO自身も言っていたように自分に向いた瞑想をすればいい。

 

OSHOの瞑想というと一般人にはダイナミック瞑想が奇異なものとして見られる傾向があると思う。私はそれをあまりしなかったがノーマインド瞑想には深く入ってくることがあった。私の今の意見では、ダイナミック瞑想というものの価値を否定はしないものの、周囲にまき散らすイメージや音の騒音が、苦情となって返ってくるのではないかという理解がある。それは深いセラピーになるとはいえ、一般人との軋轢を生じるものではないかと思う。したがっていくら防音の部屋でそれをやるにしても、あまり好ましいものではないという理解を持っている。