探求者について

私が世の中を見ると、世間は人類という集合的なものが、機械的なマインドに基づいて動いているように思えます。人はいまだ目覚めず、集合的に存在している、というような感じです。そこから一歩外に出ることが探求です。

 

探求者には様々な困難があります。私の場合、探求者になってから、安定した大手企業での職を捨て、あまり良い仕事にも巡り合わず、良い車にも乗ることが少なく、健康もあまり良い状態ではありませんでした。また世間的にみるとあまり良い評価を受けるわけでもなく、変わり者のようにして存在していたと思います。

 

仏陀に限らず多くの覚者が悟りの価値を言います。しかし私は、それほど悟りに価値があるという風には思っていません。自分にとってそれは運命でありました。私は子供時代、まだ小学校に上がる前に、神秘体験というか一瞥(禅で言うところの小さな悟り体験)が続き、それは夜、家族で川の字になって眠った後に起こるのですが、何かいつもと違う、何かが消えているような不思議な感覚で、目が覚め、母親を起こしたりしました。親は少々心配したのでしょう、医師に診察させましたが、脳を検査しても異常は見つかりませんでした。

 

また高校生のころも、夜中に勉強を遅くまでし、眠ると、勝手に目が覚め、いつも自分の手のひらを見るのですが、何かがいつもと違って覚めている、マインドが機能していない、という経験を頻繁にしました。その頃はもう大人になりかかりですから、親には相談することはありませんでした。

 

今から思えばそれらは一瞥であったのです。悟りの前触れです。そういうこともあり、私には瞑想をすることや、覚者の弟子になることが運命であったのだと思います。

 

瞑想と言えばインドです。私は二度インドに行きました。OSHOも言うようにインドは貧しい国です。その歴史を内面の探求に注力してきた国です。内面を探求すると、人は外面で貧しくなってしまうものだろうと思います。外面、現実世界に満足できない人だけが内面の悟りに引き付けられるのだろうと思います。

 

しかし外面で貧しくなることは苦痛でもあります。おいしい食事、きれいな服、高級な車、いい暮らし、とは程遠い生活になってしまいます。

結論すれば、内面を探求することは犠牲を伴うと、私は思っているということです。その犠牲は世間的にみると大きなものです。悟りの可能性の高い人ほど、その犠牲は大きなものであるとも思います。

 

探求をしているとき、多くの探求者仲間を見る機会がありました。中にはライフスタイル探求者と私が呼ぶところの、見た目だけの探求者もいました。見た目は探求者ですが、本質的には真剣な探求者ではない人も多いということです。そういう人は案外現実社会によく適応し、それなりに楽しんで生活しているように見えました。しかし内面の進歩はほとんどないでしょう。真摯な探求者であることには、それなりの犠牲が伴います。こればかりはどうしようもないものだと思います。

 

今の私は、外面でも豊かであろうとしています。清貧であることも可能です。しかし豊かであることも自然なことだろうと思います。

 

真言密教には理趣経というものがあります。これはゾルバザブッダに近いものです。外面でも豊かであることが悟りに近づくことである、というような趣旨であったと思います。

 

探求には犠牲があります。しかし今の私は、できるだけ探求者に、外面で豊かであってほしいと思います。どんなに内面の探求が魅力的に見えても、やがて悟りを得れば、外面の豊かさもまた必要なものであると気づくことがあると思います。私もOSHOと同じく、内面的にも外面的にも豊かである探求者像を理想としたいと思います。