ニケットの探求記②

それは編集記者の仕事だった。田舎のフリーペーパーに記事を書く仕事だった。私にはそれがあっていた。あいかわらずパートナーはできず、気晴らしといえば毎週のように通うスナックでカラオケを歌い、ホステスと話をするくらいだった。しかしその仕事で少しは稼ぎ、私は大型の四輪駆動車を買うことができた。親が100万円出してくれた。その車のおかげか私はデートも少しした。

 

仕事は数年続き、私は始まったばかりのインターネットで遊ぶことを覚え、毎夜のように、ネットアイドルを称する女の子のホームページに行き、チャットをしながら酒を飲んだ。散歩をすることは減ったが今度は酒を飲むのが瞑想になったかのようだった。サニヤシンのメーリングリストにも参加した。そこで知り合ったサニヤシンのお宅を訪問することもあった。瞑想センターの主催する集まりにも参加したりしていた。

 

会社での仕事は面白かったが諸般の事情で辞めることになった。偶然だろうか、私の探求も佳境を迎えていた。私は車でドライブすることが多かったが、第三の目が開眼するような経験をドライブ先でした。ドライブしているとなぜだか涙が流れて、それは悲しみの涙ではなく感謝のそれなのだけれども、止まらないということが続いた。私は音楽をかけていた。ドライブが瞑想になっていた。

 

編集の仕事を辞めて、私には雇用保険が唯一の収入源だった。まったくの日暮らしである。ともかくその保険でなんとか車を維持し、各地の瞑想センターの集まりに参加し、通訳のワークもした。その通訳のワークが印象深い。

 

自ら悟りを開いたとするインド人サニヤシン二人が来日し、神戸で個人セッションをする。その通訳やらないかともちかけられた。私はそのワークをし、最終日に自分自身がセッションを受けた。私の質問はこうだった「あなたは本当に悟っているのですか?」。答えは悟らないと人が悟っているかどうかはわからない、というようなものだったと記憶している。ともかくその時期から私は自分自身の瞑想が深まるのを感じていた。

 

メーリングリストは毎日チェックしていた。私は詩のようなものを投稿したりした。毎夜のように決まった場所までドライブした。聴いていた音楽は癒し系のものからヒーリング系のもの、オペラと様々だった。

 

伊勢には二度ドライブした。不思議なさまよいの時期だった。車は大きくて安定していたから、私は片手運転で音楽とドライブを楽しんだ。パーキングエリアで車中泊し、関東方面にも出かけた。ウイザードという車だった。

 

35歳になりかけだった。OSHOの本に出合ったのが20歳ごろ、インドでサニヤシンになったのが28歳ごろだからずいぶん長く探求を続けていた。ドライブは瞑想だった。音楽を聴くのも瞑想だった。

 

一度大阪の瞑想センターの瞑想の集まりに参加した時の事。周囲のサニヤシンたちが手を挙げて「OSHO!」と言うのだが、私にはそれができなかった。時期が来たことに心のどこかで気づいていた。

 

ドライブした中で最も印象的だったのは、雨の大阪の夜景を高速から見たことと、京都の鞍馬寺のふもとで車中泊したことだ。私は徹底して一人だった。一人あることもまた瞑想であった。私にとっては。