ニケットの探求記①

私がインドに行ったのは1993年。インドの街はどこも灰色に思えた。ムンバイからのタクシーに乗りプネーについた私はひょんなことでインド人英語教師の経営するアパートに部屋を借り、6か月に及ぶインド滞在を始めた。

 

砂利の道、太陽の熱、三輪タクシーの吐き出す排気ガスのにおい。コミューンの中にしげる草木。ウオーターボトル。日本で買ったサンダル。道端の宝石売り。夜になると灯のともされるガネーシャ像。なにもかもが日本とは違った。

 

コミューンの中で食べる食事はインド料理というよりは西洋料理で、かなりうまい。金髪の女サニヤシン(弟子)がさっそうと歩く。マルーン色のローブ。グループリーダーの着る黒いローブ。通訳の仕事。野菜切りの仕事。通訳が必要なんだといつも仕事を持ってくる陽気なイタリアンの女性。

 

私はコミューンでの一日が済むと必ずといっていいほど道端の宝石商の店に立ち寄った。宝石商といっても扱っているのはクリスタルやトパーズといった安価ないわゆるパワーストーンだ。私は20万円近くそれらの石に使った。まったく無駄使いだ。でも満足していた。彼らとの話。出されるチャイ(インド式ミルクティー)、石の持つ不思議な雰囲気。

 

コミューンに入るにはエイズチェックがいる。当時まだコミューンでそれを受けることはできなくて私は日本の医院でそれをしてきていた。初めて買ったローブは道端で数百円で売られていたもの。お気に入りだった。

 

私は会社を辞めた。もともと辞めるつもりで入った会社だった。私がOSHOに出会ったのは20歳のころ。地元の図書館で借りた「存在の詩」を読んで、一気に探求の道に進んだ。当時の私は東京で学生をしていたから周りはみんな一流企業に就職する。そんな仲間の間で一人だけ違った道を歩くことになる。OSHOの本を買い込み、雑誌の広告を見てセラピーグループに参加し、東京の瞑想センターで瞑想をしていた。そうするうちに知人からOSHOが死んだことを知らされる。なんでもっと早くにインドに行っていなかったのだろうと少々後悔。私は就職をせずアルバイトでお金をためてインドに行くことも考えたが、周りに流されて大手企業に就職した。

 

その会社では3年弱働いた。たった100万円を貯金して、インドに行った。エアーインディアは快適で機内で飲んだマンゴージュースがうまかった。

 

私はもともと宗教の類にはまったく興味のない子供だった。しかし神秘的なことは好きで、ムーを読んだりはしていた。お化けも好きで、UFO話も好きだった。ともかくも27歳の時にインドに旅立ったが、インド滞在中もっとも印象的だったのは、チャネリングセッションの経験だった。とても神秘的な雰囲気だった。私は異性関係について質問したが答えはよく聞き取れなかった。

 

泣いたり笑ったり座ったりする瞑想、ミスティクローズは二回受けた。ノーマインド瞑想は一回。クンダリニー瞑想はお気に入りだった。周囲にはカップルになっているサニヤシンが多かったが私にはパートナーができることはなかった。いろいろなグループに通訳として入った。あまり印象に残るものはない。グループは英語で進められるからそれを通訳しなくてはならない。途中で投げ出した仕事もあった。コミューンではそういう仕事を「ワーク」と呼んで瞑想の一種であるとしていた。

 

コミューンの外で楽しむことは少なかった。買い物に町に出かけることはたまにあった。コミューンの入口近くにあるジャーマンベーカリーはサニヤシンならだれでも知っている有名なカフェだ。コミューンの中でも飲めるが、そこで飲むチャイはまた格別だった。アパートでは一人だった。最初はマットレスすらない状態だったが、それを買い、かけ布団を買った。安物のラジカセ。OSHOの写真。インセンス。日本から持ってきたバッグに詰め込んだ石たち。OSHOの英語の本。

 

帰国した私は金欠だった。当然だ。当時パソコンで「その日暮らし」という個人会計ソフトがあるのを知った。私はまさにその日暮らしを始めた。

 

私の住む地元には緑に囲まれた遊歩道と公園があった。私は毎日のように夕食が済むとそこを歩いた。仕事のこと。金のこと。女のこと。悩みや考え事がたくさんあっても歩いているうちに忘れてしまう。それは歩く瞑想になっていたのだと思う。ともかく公園につくとたばこを一服。そういう毎日だった。瞑想はたまにやった。瞑想センターには行かなかった。当時の私は女といい車がほしくてしょうがなかった。金の悩みが付きまとった。学習塾でバイトを始めようと面接を受けてみるのだが、受かると働く気をなくす。そんなことをやっていた。それでも1年弱学習塾で働き、軽自動車を買った。塾の女生徒から「先生っておじいさんみたい」と言われてショックだった。当時まだ30歳くらいだったからだ。ともかくいい車といい女がほしかった。探求者になったことを後悔することはなかったが。

 

当時の私はログハウスに住みたいと思っていた。ほしかったのは大型の四輪駆動車。オフロードバイク。そしてパートナーだった。しかしそれらはどれも手に入らなかった。

 

塾を辞めて無職の時期が数年続いた。さすがに親と同居だったから肩身が狭くなる。それでも私は探求者として純粋にあった。部屋の壁にはインドで買ってきたOSHOの写真がかけられていた。親戚が部屋に入ってくる時にはそれをはずしてたんすの中にしまった。

 

毎日新聞は読んだ。テレビも見た。食事は家族と一緒だった。菜食主義ではなかった。

 

インドに行く前に名古屋でグループを受けたことがあった。有名な日本人サニヤシンがリードするエンカウンターを主体としたグループだった。年末年始にあったそのグループはとても強烈で私に会社を辞めることを決意させたものだった。料金は4、5万円だったと思う。

 

たばこを吸い、近所の公園まで夕方に散歩するだけの生活が続いた。仕事のことはいつも悩みで、私は占い師に頼ったりした。医学部を受けようと勉強したこともあった。自分で塾を開くことも考えたがやめた。就職も考えたが、なぜか体調を崩したりしていい会社に再就職することもなかった。そうこうするうちに私は自分に向いた仕事に偶然巡り合う。